─ 霧の夜話 その3 ─






 少女は、新たな涙を流していた。
 それは、さっきの切ない涙とは違い、暖かい涙だった。

「おじいさん、かわいそう」

 少女は、またハンカチで目をこすった。

「いいんだよ。私がいけないんだ、その罰さ」

「どうして? お嫁さんのこと大好きだったんでしょう?
 おじいさん、悪くないよ。かわいそうだよ」

 少女は、赤い瞳をしばたいて、必死に私に訴えた。

「私はね、大切なことをしなかったんだよ」

「なに?」

「それはね、妻に一度も聞いたことがなかったんだ、私に何をしてほしいかを」

「でも、おじいさんは、一生懸命考えたんでしょう?
 お嫁さんを喜ばせようとして。
 プレゼントしたり、迷惑かけないように、リ……リハビリしたり……」

「うん、考えたよ。でも、考えただけじゃだめなんだ。
 人はね、いくら考えてもわからないことがあるんだよ。
 そういうときは、聞かなくてはいけないんだ、あなたの望みは何ですか? ってね」


 少女は、小首をかしげ、私の言葉を反芻しているようだった。
 時々、鼻をすすり上げながら。
 時折吹き始めた微風に、短い髪を揺らしながら。

「そうだね、お嬢ちゃんと同じだね」

 じっと考え込む少女に、私はこう声をかけた。

「お嬢ちゃんは、聞いたことがあるかい? みちるちゃんが、何をしてほしいのかを」

 少女は、弱々しく首を振る。

「聞いたこと、無かった…。
 やっぱりわたし、悪い子だったんだ」

「それは違うね。お嬢ちゃんは悪い子なんかじゃない。友達思いのいい子じゃないか」

 わたしは、できれば少女の頭を撫でてあげたかったのだが……

「みんなの言い方がおかしかったんだよ。
 お嬢ちゃんには、こう言ってあげるべきだったんだ、
 みちるちゃんがどうしてほしいか、聞いてごらんってね」

「みちるちゃん、聞いたら答えてくれるかな?」

「うん、優しく聞いてごらん。
 きっと答えてくれるよ」


 少女の友人が何を欲しているのかは、わたしには分かっていた。
 彼女は、自立したいのだ。
 しかし、それはわたしの口からは言わない方が良いだろう。
 そっと覗き見ると、もう少女の涙は乾きかけていた。

「お嬢ちゃん、そろそろおうちに帰ったらどうかな。お母さんが心配しているよ」

「でも…」

 少女は下を向き、口ごもる。

「本当だよ。今頃きっと、泣きそうなくらい心配しているよ。
 おうちに帰って確かめてごらん」

「違うの…」

「まだ、死ななくてはいけない理由があるのかな?」

 少女は、首を振り唇を引き結んで私を見上げた。


「帰ったら、おじいさん、また一人になっちゃう…」




 私は絶句した。
 この優しい少女の不意打ちに、あふれ出ようとする涙を抑えるのに必死だったのだ。
 少女が不思議そうに、私を見上げた。



「そんなことはないよ」

 かろうじて絞り出した私の声は、かすれていた。

「耳を澄ましてごらん、私の友人の声が聞こえるかい?」

 虫の音が相変わらず、細く響いている。

「うん、綺麗な声」

「彼とはもう、ずーっと一緒なんだよ。
 だから、寂しくはないんだ」

「そっか」

 少女はにっこりと笑った。

「じゃあ、帰るね」

 少女は、ベンチからぽんと飛び降りた。
 彼女の足元の砂利が、ザッと音を立てた。



 霧はいつの間にか晴れかかっていた。
 先ほどから吹き始めた微風のせいだろう。
 明日は、ぽかぽかとした良い天気になりそうだ。

「おじいさん、またここで会える?」

「妻に会えなければね。
 でも、夜出歩くのは危ないから、もう止めた方がいいな」

「うん。 ……早くお嫁さんに会えるといいね」

「ああ、お嬢ちゃんも祈っていてくれるかな?」

「うん!」

 少女は別れを告げると、5、6歩歩き、振り返って手を振った。
 初めは小さく、そして何かを見つけたように、嬉しそうに全身を使って。
 大きく、大きく、手を振った。
 私は、暖かな気持ちでそれに応えた。

 それを見届け、少女はきびすを返し、軽い足取りで駆けていった。
 彼女が私に何を与えてくれたかは、たぶん彼女は気付かずに終わるのだろう。
 天使というものは、得てして無意識なのだ。



 去っていく少女の後ろ姿と足音を見送りながら、私はふーっとため息をついた。
 霧が晴れ、冷えがきつくなってきたようだ。
 虫の音も、心なしかさらに弱くなってきたような気がする。
 さっきよりも数段の寂しさを味わっている自分に気づき、また苦笑する。



 突然、後ろから声がする。

「あなた、探しましたよ」

 それは、私が待ちわびていた声だった。

「おまえか?」

 私は振り返るのが恐ろしく、前を向いたまま震える声で言った。

「どうして……どうしてここが……」

「相変わらずせっかちな方ですね。
 私がお迎えに行ったときには、もう何処にもいらっしゃらないんですから」



 声は、私の背中からベンチを回り、目の前に来た。
 そこにあったのは、懐かしい妻の姿だった。
 白髪に、少し目尻が下がった瞳。
 頬には、穏やかな微笑が浮かんでいる。
 肩から掛けているショールは、生前妻のお気に入りものだった。

「どうしてここが分かったんだい?」

 私は、惚けたように同じ言葉を繰り返した。

「声が聞こえたんですよ。
 かわいいお嬢さんの声と一緒に」

 そういえば、幽霊になってから私が声を発したのは、今日が初めてだった。
 やはりあの少女は、天使だったのだろう。

 私の贖罪のために現れたのだ。



「でも、どうしてこんなところにいらしたんですか?」

「おまえの好きな場所じゃないか。おまえが居ると思ってね」

「覚えてらしたんですか?」

「ああ、用が無くなってから覚えたんだよ。済まなかったね」

 私は妻の手を取り、そう言った。

「いいんですよ。好きなのは場所じゃないんですから」

「それより、もっと素晴らしいところを見つけましたよ。今度一緒に散歩しましょうね」

「ああ、何度も何度も、飽きるまで散歩しような」

「それは素敵ですね」

 私は、立ち上がり妻の肩を抱いた。
 妻は首を傾け、そっと私に身を寄せた。



「そろそろ参りましょうか?」

 妻の言葉に、私はステッキを取った。
 気がつくと、ステッキに鈴虫が1匹掴まっていた。

「おまえも一緒に行くかい?」

 私は注意深く鈴虫を肩に乗せ、歩き出した。



 いつの間にか虫の声は消えていた。


─ 終 ─









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