少女は、新たな涙を流していた。
それは、さっきの切ない涙とは違い、暖かい涙だった。
「おじいさん、かわいそう」
少女は、またハンカチで目をこすった。
「いいんだよ。私がいけないんだ、その罰さ」
「どうして? お嫁さんのこと大好きだったんでしょう?
おじいさん、悪くないよ。かわいそうだよ」
少女は、赤い瞳をしばたいて、必死に私に訴えた。
「私はね、大切なことをしなかったんだよ」
「なに?」
「それはね、妻に一度も聞いたことがなかったんだ、私に何をしてほしいかを」
「でも、おじいさんは、一生懸命考えたんでしょう?
お嫁さんを喜ばせようとして。
プレゼントしたり、迷惑かけないように、リ……リハビリしたり……」
「うん、考えたよ。でも、考えただけじゃだめなんだ。
人はね、いくら考えてもわからないことがあるんだよ。
そういうときは、聞かなくてはいけないんだ、あなたの望みは何ですか? ってね」
少女は、小首をかしげ、私の言葉を反芻しているようだった。
時々、鼻をすすり上げながら。
時折吹き始めた微風に、短い髪を揺らしながら。
「そうだね、お嬢ちゃんと同じだね」
じっと考え込む少女に、私はこう声をかけた。
「お嬢ちゃんは、聞いたことがあるかい? みちるちゃんが、何をしてほしいのかを」
少女は、弱々しく首を振る。
「聞いたこと、無かった…。
やっぱりわたし、悪い子だったんだ」
「それは違うね。お嬢ちゃんは悪い子なんかじゃない。友達思いのいい子じゃないか」
わたしは、できれば少女の頭を撫でてあげたかったのだが……
「みんなの言い方がおかしかったんだよ。
お嬢ちゃんには、こう言ってあげるべきだったんだ、
みちるちゃんがどうしてほしいか、聞いてごらんってね」
「みちるちゃん、聞いたら答えてくれるかな?」
「うん、優しく聞いてごらん。
きっと答えてくれるよ」
少女の友人が何を欲しているのかは、わたしには分かっていた。
彼女は、自立したいのだ。
しかし、それはわたしの口からは言わない方が良いだろう。
そっと覗き見ると、もう少女の涙は乾きかけていた。
「お嬢ちゃん、そろそろおうちに帰ったらどうかな。お母さんが心配しているよ」
「でも…」
少女は下を向き、口ごもる。
「本当だよ。今頃きっと、泣きそうなくらい心配しているよ。
おうちに帰って確かめてごらん」
「違うの…」
「まだ、死ななくてはいけない理由があるのかな?」
少女は、首を振り唇を引き結んで私を見上げた。
「帰ったら、おじいさん、また一人になっちゃう…」
私は絶句した。
この優しい少女の不意打ちに、あふれ出ようとする涙を抑えるのに必死だったのだ。
少女が不思議そうに、私を見上げた。
「そんなことはないよ」
かろうじて絞り出した私の声は、かすれていた。
「耳を澄ましてごらん、私の友人の声が聞こえるかい?」
虫の音が相変わらず、細く響いている。
「うん、綺麗な声」
「彼とはもう、ずーっと一緒なんだよ。
だから、寂しくはないんだ」
「そっか」
少女はにっこりと笑った。
「じゃあ、帰るね」
少女は、ベンチからぽんと飛び降りた。
彼女の足元の砂利が、ザッと音を立てた。
霧はいつの間にか晴れかかっていた。
先ほどから吹き始めた微風のせいだろう。
明日は、ぽかぽかとした良い天気になりそうだ。
「おじいさん、またここで会える?」
「妻に会えなければね。
でも、夜出歩くのは危ないから、もう止めた方がいいな」
「うん。 ……早くお嫁さんに会えるといいね」
「ああ、お嬢ちゃんも祈っていてくれるかな?」
「うん!」
少女は別れを告げると、5、6歩歩き、振り返って手を振った。
初めは小さく、そして何かを見つけたように、嬉しそうに全身を使って。
大きく、大きく、手を振った。
私は、暖かな気持ちでそれに応えた。
それを見届け、少女はきびすを返し、軽い足取りで駆けていった。
彼女が私に何を与えてくれたかは、たぶん彼女は気付かずに終わるのだろう。
天使というものは、得てして無意識なのだ。
去っていく少女の後ろ姿と足音を見送りながら、私はふーっとため息をついた。
霧が晴れ、冷えがきつくなってきたようだ。
虫の音も、心なしかさらに弱くなってきたような気がする。
さっきよりも数段の寂しさを味わっている自分に気づき、また苦笑する。
突然、後ろから声がする。
「あなた、探しましたよ」
それは、私が待ちわびていた声だった。
「おまえか?」
私は振り返るのが恐ろしく、前を向いたまま震える声で言った。
「どうして……どうしてここが……」
「相変わらずせっかちな方ですね。
私がお迎えに行ったときには、もう何処にもいらっしゃらないんですから」
声は、私の背中からベンチを回り、目の前に来た。
そこにあったのは、懐かしい妻の姿だった。
白髪に、少し目尻が下がった瞳。
頬には、穏やかな微笑が浮かんでいる。
肩から掛けているショールは、生前妻のお気に入りものだった。
「どうしてここが分かったんだい?」
私は、惚けたように同じ言葉を繰り返した。
「声が聞こえたんですよ。
かわいいお嬢さんの声と一緒に」
そういえば、幽霊になってから私が声を発したのは、今日が初めてだった。
やはりあの少女は、天使だったのだろう。
私の贖罪のために現れたのだ。
「でも、どうしてこんなところにいらしたんですか?」
「おまえの好きな場所じゃないか。おまえが居ると思ってね」
「覚えてらしたんですか?」
「ああ、用が無くなってから覚えたんだよ。済まなかったね」
私は妻の手を取り、そう言った。
「いいんですよ。好きなのは場所じゃないんですから」
「それより、もっと素晴らしいところを見つけましたよ。今度一緒に散歩しましょうね」
「ああ、何度も何度も、飽きるまで散歩しような」
「それは素敵ですね」
私は、立ち上がり妻の肩を抱いた。
妻は首を傾け、そっと私に身を寄せた。
「そろそろ参りましょうか?」
妻の言葉に、私はステッキを取った。
気がつくと、ステッキに鈴虫が1匹掴まっていた。
「おまえも一緒に行くかい?」
私は注意深く鈴虫を肩に乗せ、歩き出した。
いつの間にか虫の声は消えていた。