─ 老人の夜話 ─






 私には、妻が居たんだ。
 私の妻は、穏やかな人でね、いつでも優しく私の帰りを待っていてくれたんだよ。
 私は、会社で重要な仕事を任されていて、家に帰るのはいつも遅くなってからだった。

 でも、妻は不平を言わずに仕事から帰った私に、
「お帰りなさい」
という言葉と、笑顔で迎えてくれた。



 当時、私は仕事が面白くてね。
 責任があるというのを口実に、仕事にのめり込んでいたんだよ。
 でも、一人で家で待つ妻のことを考えなかった訳じゃないんだ。
 寂しいだろうな?
 つまらないだろうな?
 いつも、気にかけていたよ。

 だから、妻にはなるべくたくさん楽しんでほしくてね。
 いろいろなプレゼントをしたよ。
 妻の好きそうな服を買ってあげたり、友達と旅行に出してあげたりね。
 まぁ、ちょっとした罪滅ぼしのつもりだった。



 罪滅ぼしって分かるかい?
 そうか、お嬢ちゃんは頭がいいね。



 そんなある日、私は足を怪我してしまったんだ。
 松葉杖を使う生活を余儀なくされてね。

 そうそう、そうやって使う杖だよ。



 家では、妻に苦労をかけた。
 ものを取るのに、いちいち杖を使わないとできないんだからね。
 あれを取ってくれ、これを取ってくれと妻を一日中、そばにつきっきりにさせてしまったよ。

 それで、リハビリのためにこの公園に、妻と二人で散歩に通ったんだ。
 うん、リハビリというのは、普通の生活に戻るための訓練だよ。
 早く、妻を自由にしてやりたくてね。



 そのときの妻は、年甲斐もなくはしゃいでいたよ。
 口数も多くてね。

 一度、
「何がそんなに楽しいのかい?」
と、聞いてみたことがあるんだ。

 でも彼女は、笑って答えてくれなかった。
 本当に楽しそうに笑ってね。



 やがて足も良くなり、いつも通りの生活に戻った。
 妻もまた、口数の少ない物静かな人に戻った。



 そして何年かが経ち、妻は大きな病にかかった。

 情けないことに、私は妻の看病を人に任せて、仕事をした。
 妻には、最高の治療を受けさせてやった。
 そうだね、それも罪滅ぼしだったのかもしれないね。

 でも、妻の具合が良くなることはなかった。

 妻は、私の居ないところで死んだ。
「もう一度、この公園を散歩したかった」
っていう言葉を残してね。



 私は、妻が死んでから気がついたんだ。
 あれ以来、一度もこの公園に来ていないことを。

 近所の公園を散歩する。
 何故、そんなに簡単なことをしてあげられなかったんだろう。
 それよりも、そんな妻のささやかな願いにも気付いてあげられなかった自分を、私は責めた。



 それからというもの、私は前にもまして仕事にのめり込んだんだよ。
 うんうん、一生懸命仕事をしたんだ。

 忙しいときは、会社に泊まり込んで働いた。
 本当はね、妻の居ない家には帰りたくなかったんだ。
 そうそう、身体には良くないね。



 その通り、私はついに身体をこわしてしまった。



 仕事中に、ものすごく胸が苦しくなって床に倒れ込んでしまったんだ。
 床の絨毯に顔を押しつけ、それが細かい花柄だったと初めて気が付いた。

 おかしいだろう?
 そんなことを考えている場合じゃないんだがね。

 そして、ぼんやり心の中で呟いた。
『ああ、私はこれから死んでいくんだな』
ってね。



 妻の所へ行けるのだろうか?
 妻は、どこにいるのかな?

 うん、そう考えたんだ。

 妻が迎えに来てくれるとは思わなかった。
 だって私は、妻が死ぬときにそばに居てもやらなかったんだから。

 だから、私は自分で妻の所に行かないと、彼女には会えないと思った。

 どこにいるのだろう?
 どこにいるのだろう?

 絨毯の花を見ながら、ずっと考えていた。
 そして思い当たったのが、この公園だったんだよ。



 そう、妻が一番行きたがっていた場所だ。
 ここに来れば、妻に会えると思った。
 妻に会いたい。
 会いたい……

 ぼんやりしてきた頭の中で、必死にこう思っていた。



 そして、気が付いたらここにいたんだよ。

 けれども、妻は居なかった…



 そして、私はここから動けなくなってしまったんだ。






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