─ 霧の夜話 その1 ─






 霧が深くなってきた。

 辺りにたゆたう霧は、わたしの古ぼけた背広を濡らすことなく、まとわりついている。
 そうだ、ベンチに腰を下ろすことにしよう。
 こんな夜は、わたしがベンチを占領したところで、迷惑がる者も居ないだろう。

 ステッキをベンチに立てかけ、空を見上げる。
 月が見える。
 霧を通して見る月は、存在感がない。
 まるで、わたしのようだな。
 少し、苦笑してみる。

 いい夜だ。
 かすかに虫の音が聞こえる。
 もう少しすれば、寒さで声を上げられなくなるのだろう。
 わたしは、帽子を少し上げて、鈴虫にお別れの挨拶をした。

 街灯が、乳白色の霧の海に射し込み、私と景色を浮き立たせている。



 はるか彼方に、赤い鮮やかな花が咲いた。
 いや、そのように見えたのだ。
 赤い花は、少女だった。
 十にはまだまだ届かないだろう、紺のスカートに赤いトレーナーを着た少女が、こちらに歩いてくる。
 あごを上げ、肩をいからせ、傲然と前を見つめて、だんだんと大きくなってくる。
 肩につくかつかないかの髪が、少女の歩みにあわせて揺れている。

 少女は、街灯の下でわたしを見つけ、ひるんだように立ち止まったが、首を一つ振ると声をかけた。

「おじいさん、こんなところで何をしてるの?」

 怒ったような、ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、少女の目の縁は赤かった。

「人を待っているんだよ」

「こんな夜に?」

「悪いかい?」

「悪くない…」

 最後の言葉が、弱々しくなった。
 そして、わたしの隣のあいている空間を指さし、
「座っていい?」
と、遠慮しがちに言った。

 わたしは、微笑んでうなずいた。

 ベンチは、少女には少々高いようだ。
 少女は、腕を使って、よいしょとそこに座った。

 高すぎるベンチも、彼女が手持ちぶさたに足をぶらぶらさせるには、ちょうどよい高さだったらしい。
 両手を身体の脇に置き、少女は無意味に足を揺らす。
 足が片方ずつ、振り上げられ、振り下ろされる。

 やがて少女は、思い切ったように口を開き、きっぱりと言った。


「わたし、死ぬの」


 この言葉を、どう解釈したらよいのだろう?
 わたしは、リアクションに困ってしまった。


「人は、誰でも死ぬんだよ。 だが、お嬢ちゃんは、まだ天国の門をくぐるには若すぎるようだがね」


 わたしのこんな言葉は、少女の重大な告白に対して、ずれた応えにはなっていないだろうか?
 わたしのこんな逡巡を、気にするでもなく少女は続けた。

「これから、死ぬの」

「だって、わたし、要らないんだもん」

 少女の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。

「わたし…要らない子なの」


「お嬢ちゃん。
 死ぬ前に、どうしてお嬢ちゃんが要らない子なのかを、わたしに話してはくれないかね?」

 わたしの言葉に、少女はかぶりを振った。

「だって、わたしの話を聞いたら、おじいさんだってわたしのこと、嫌いになっちゃうもん」

「もう死ぬのだから、いいんじゃないかな?
 お嬢ちゃんが、どうしても話したくないというなら、あきらめるがね」

「聞きたいの?」

「ああ。 一人で人をで待つのは退屈でね。
 お嬢ちゃんのことを嫌いになるかどうかは、話を聞いてから決めることにするよ」


 自分が、見ず知らずの誰かに告白したがっていることを、少女は気付いていないようだった。
 どのみち、退屈しているのは確かだった。こんな可愛い話し相手なら、大歓迎だ。


 少女は、こくんと一つ頷くと、うつむきながら口を開いた。

「あのね…」






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